反差別パネル展「ヘイトスピーチ­­-闘う市民たち-」に、フリーライターの岩本太郎さんより賛同コメントをいただきました。


「差別」って何だろう? 子供の頃から学校で先生から「差別はいけませんよ」と言われるたび、そう思っていた。つまり、それを実感のもとに学ぶ機会がなかったのだ。それを「幸か不幸か」だったかと問われたら、正直答えに窮する。なぜならおそらく私も知らず知らずに他者を「差別」してきたし、同時に他者から「差別」されてきたのだ――と、記憶の彼方に残る具体的な事例から、今にして思うからだ。

それを「世の中のせいだ」と当時は言えたかもしれない。しかし今の私はそんなことを言えない齢になったし、しかもそんな頃になって、ひょんなことから昨年初めより都内・新大久保ほかでの醜悪なまでの「差別」の大行進を、自らも映像カメラごしに見届けるようになった。しかも、その過程でそうした「差別」の大行進の参加者たちから私は明確な「敵」と見なされるようになり、デモの場やウェブ上で罵詈雑言を浴びせられるようになったが、同時に私も「俺はお前らの敵だ」と腹を括り、たまたま同時期から、街頭で彼らに対峙していた「カウンター」の人々の行動と共に一連の、これまでの人生でもあまりお目にかかることのなかったような情景にウェブ&リアル共に立ち会うことになった。

そこで覚えた感情は……再びだが「何だろう?」。かつて大学時代の恩師は私に「最も対立する二者は99%までが同じで、残り1%だけが違うのだ」と語った。もちろん、私は「ヘイトスピーチ」と呼ばれる彼らの言動を現場やウェブで(実名や住所や携帯番号まで晒したうえで)徹底的に批判・罵倒したし、彼らも私を批判・罵倒する(ただし彼らは自分の素性が暴かれることを極度に恐れていることもわかった。だってせっかく私が住所も連絡先も晒しているのに、これまで誰も「突撃」どころかアプローチ一つしてこないのだから)。

しかし、そうした中で見えてきたのは「私が彼らであったかもしれないし、彼らが私であったかもしれない」ということだ。だからといって「同情」する気もない。「そっちがそう来る」なら「こっちもこうやる」だけだ。情けないのは彼らが私に勝手に「あちら側」とのレッテルを貼って、フリーランスライターとして失なうものもほとんどない私に対して「屁でもない」レベルの批判をしてくることだ。その点では彼らは「失なうもの」を抱えていて、それがああいう運動に自らを駆り立てていくというのだろうという「同情」よりも「哀れみ」を感じてしまう。新大久保デモの取材を通じてお会いした何人かの在日コリアンの方々も「可哀想な人たちだよ」と言っていたし、そんな現場を通じて私はコリアンだ日本人だを問わず、様々な国の人たちと友だちになれた。翻って、あんな醜悪なデモに参加している彼らにはどれだけ友だちができたのだろう?

以上、延々と勝手なことを申し述べた後になってしまって大変恐縮ながら、反差別パネル展「ヘイトスピーチ­­-闘う市民たち-」に心よりの賛同の意を表します。おそらくは、悲しいけどこの先まだ続くであろう闘い。そこに対峙する方々への敬意、共感、そして「これからも俺も現場に行くし、一緒に立ち向かっていくよ!」との思いを込めて――。

岩本太郎(フリーライター。昨年2月から新大久保などでヘイトデモの取材を行なう)

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